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2002年8月13日。静子が亡くなった。頭が混乱した。 静子が亡くなって1年。やっと自分の中で理解できるようになった。 ずっと書こうと思っていた静子との思い出。やっと書ける。 忘れてしまわないように・・・ここに残しておこう。 ― 2003年8月26日 エヘラ ― |
「静子」僕は生意気にもずっとこう呼んでいました。 静子と初めて出会ったのは、30数年前の23才の時だったと思う。 第一印象は、「なんだか恐い人だな・・・」と思った。 それから、1年後、どういう訳か、静子のトリオに参加した。 246号線の深沢8丁目にあったレストランで、毎日3ステージ演奏した。 横山静子(p) 稲川正(ds) エヘラ(b)のトリオだった。 嬉しい事に、お客さんのウケもよく、バンドの回りに集まってくれたっけな。 当時、静子は(多分)スイングジャーナルの人気投票で10位ぐらいになり、皆でお祝いしたのを覚えてる。 その後は静子トリオを出たり入ったりした。 その中でも、毎週日曜日にあった横田基地のサンディジャズでジョー・ジャクソン(ts) (多分・・・そのような名前だったと思う。)カルテットでの仕事は忘れられない! 静子のバッキングにジョー・ジャクソンが必ず反応しているアドリブをしていた。 静子トリオに参加して、僕はとても勉強になったし、刺激を受けた。 殆ど、怒られた記憶しかないけど、とても刺激的だった。 忘れもしない、「G♭のブルース」が弾けなくて、50歳過ぎても、「G♭のブルースは弾けるようになった?」と聞かれたものだ。 数年後、ある日静子から「福ちゃん(ご主人の田井中福司氏)とアメリカに行くけど一緒にどう?」と誘われた。 若かった僕は、とてもアメリカで通用するとは思っていなかったから、断った。 誘ってくれた事はスゴク嬉しかった。 静子と福ちゃんはアメリカへ旅立っていった。正直、まさか、本当に行くとは思ってもいなかった。 数年後、静子が帰国ライブ。確か、高円寺の「次郎吉」だったかな。 その時も参加させてもらった。静子に怒られるかもしれないけど、それ程変わった・・・とも思わなかった。 それからは、日本と海外という壁でいつのまにか疎遠になっていった。 いつだったか、「ジャズ通信」で『ニューヨークで活躍している日本人』という題で、静子が紹介されていた。 デュークエリントン楽団に在籍して数年・・・と書いてあった。とても驚いたし、非常に嬉しかった。 また、厚木基地に勤めていた知り合いに、「この人知ってる?」と基地内のチラシを渡された。 またもや、ビックリ!それは「横山静子帰国ライブ」のチラシだった。 疎遠になっていた僕は、勿論、駆けつけた。 静子も福ちゃんも、驚き、そして喜んでくれた。それからまた、付き合いが始まった。 付き合いが再開し、新潟のヤマハで静子トリオに参加した。 僕はボロボロになって、静子に「何やってんのよ!」と怒られ、打ち上げで涙したのを覚えてる。 「この雪辱はいつか・・・」と思っていましたが、その後なかなか使ってくれませんでした。 (今思えば当たり前ですが) 久し振りに、静子と演奏したのは、2000年10月にニューヨークへ遊びに行った時だった。 静子トリオが出演するレストランへ遊びに行った時、「演ってみる?」と静子から言われ、素直に「演ります」と・・・ 久々の静子との演奏で、少々緊張気味だったが楽しく演奏が出来た。 静子から「あんた、良くなったんじゃない?」 福ちゃんから「人間が出てるよ」と言われ、最高に嬉しくなった。 静子に誉められたのは最初で最後だったような気がする。 次の日、静子、福ちゃんと焼肉を食べに行った。 静子が「私達ずっと友達よ。これから家族付き合いしようね。」と言いだした。 この時、僕は嬉しい反面、「何かヘンな言い方だな・・・」と思ったが、その時は深く考えずに、「静子も丸くなったんだな・・・」と思っただけだった。 次の年のお正月、静子がお兄さんの家へ来ていた時、我が家へ招待した。(お兄さんの家と僕の家はとても近い) その時に気がついた。静子の歩き方がへんだったのを。 「静子どうした?歩き方がへんじゃないか」と言ってしまった。 足が痛くて床に座れなくなったという静子を、唯一ウチにある椅子に座らせた。 静子が、とても年を取って、小さく見えた。 20時から24時くらいまで、昔話で盛り上がり、またもや苛められたっけな。 静子を送っていく時、「今日は有難う。本当に楽しかったよ!」と言ってくれたことが忘れられません。 静子から、優しい言葉を聞きなれていない僕は、「静子、何かヘンだな。やっぱり静子らしくないな・・・」と思った。 2001年の9月、僕はニューヨークへ行った。同時多発テロに遭遇し、その時も静子に大変お世話になった。 翌年の2002年2月。静子の初めてのCD発売。僕は勿論、買った。 3月、「三田クラブ」で静子トリオのCD発売記念ライブがあった。 勿論、僕は聞きに行き、非常に良くて、体調も良さそうだった。「僕の考えすぎだった。」と安心していた。 普通でなら恥ずかしくて絶対お願いしない、静子のサインをCDに書いてもらった。 今ではこれが宝物になった。 その時、静子に「これが最初で最後だったりして!」なんてチャチャを入れた。 僕はこの一言が後悔して悔やまれない。 「うるさいわね!何言ってんのよ!すぐ、2枚目出すのよ!」なんて怒らせたりして・・・ 今思えば、既にこの時、静子は死と戦っていたのかもしれない。 これが、僕が聴く、静子の最後のライブになった。 2002年、7月、電話がなった。静子だった。 「帰国ライブをするから、来てね」という内容だった。 その数日後、また静子から電話があった。 「何だか体調が悪くて・・・明日病院へ行ってくる」という内容だった。 静子は、そのまま入院してしまった。ニューヨークの友達に頼み、花を届けてもらった。 その時、「エヘラに会いたい」と言ってくれたそうだ。正直飛んで行きたかった。 数日後、静子から留守番電話に「病室に直通電話があるから、いつでも電話頂戴」と入っていた。 僕は、恐くて、何を言っていいか分からなくて、結局電話が出来なかった。 8月になり、友達から「静子が危篤」と聞かされた・・・・・・ 8月13日、もう行くしかない。これを逃したら会えないかもしれない・・・僕はニューヨークに行く事を決心した。 夜中だったので明日にでも飛行機のチケットを買いに行こうと思っていた。 同日夜中3時過ぎ。電話がなった。福ちゃんからだった。「エヘラ、来なくていいよ。今死んじゃった・・・」 何も言葉が出なかった。ただただ、「早すぎる」。それだけしか思えなかった。 ニューヨークでのお別れ会を済ませ、静子が帰ってきた。 8月22日。日本でのお葬式。僕は絶対喪服は着たくなかった。 カミさんに怒られたが、意地でも着たくなかった。 僕の一番大好きなステージ衣装で静子にお別れを言いに行った。 若い頃の静子の写真が飾ってある。静子のCDが流れている。福ちゃんと目が合う。 涙がとめどなく溢れてきた。静子が亡くなったなんて絶対信じたくなかった。 静子とのたくさんの思い出が次から次と出てきて、泣いたり笑ったり。 静子にたくさん憎まれ口を叩いたけど、許してくれるだろう。 僕は、横山静子というピアニストを一生忘れない。 横山静子 享年58歳。安らかに・・・ ― 追伸 : 静子・・・今だにG♭のブルースは弾けません。 ― |